先日、明治時代の横浜の貴重な古写真を2枚入手した。
当時の印画紙である鶏卵紙への焼き込みであり、写真としてはそれほど状態が良くない。場所は横浜永楽町にあった遊郭の風景で、小さく「NECTARINE NO.9」の看板があるため、当時この地で隆盛を極めた大店「神風楼」であることが分かる。写された年代は明治20~30年代であろう。神風楼の写真は開港資料館にもあるが、この角度の写真は見たことがないので、貴重かもしれない。
写真をよく見ると二階窓際には和服姿の女達が顔を出し、店先には人力車がずらりと並んでいる。入口脇には、半纏を着たリキシャマンが壁にもたれ掛かっている。一見、関係者勢揃いの記念写真のようだが、正面入口に入ってゆく3人の男達が後ろ姿であるため、この風景が日常だったのかもしれない。
神風楼の経営者・山口粂蔵は栃木県出身、横浜開港時に出来た港崎遊郭(現・横浜公園の辺り)へ出店し「伊勢楼」を開いた。その後、大火事により遊郭が現在の末広町辺りに移転した後、伊勢楼に加え「神風楼」を開いた。当時は「岩亀楼」が最大の店で、外国人客も独占していたが、明治に入りその独占も撤廃され、明治初期には神風楼に外国人客が多く訪れるようになった。神風楼は、その後養子である山口仙之助が後を継いだが、仙之助は海外留学経験もあり、ホテル経営にも興味を持っていたらしい。明治11年、箱根宮ノ下の老舗旅館「藤屋」を買収しホテルを開いた。このホテルが現在でも箱根の名門ホテルとして名高い「富士屋ホテル」である。当時箱根は外国人にリゾート地として人気で「奈良屋旅館」が外国人を多く受け入れていたが、富士屋は旅館ではなくホテルとしてサービスも洋式であったため外国人客の評判も上々であったらしい(出典:「箱根富士屋ホテル物語」、山口由美著)
もちろん富士屋ホテルの外国人対応のノウハウが、外国人遊郭として栄えた「神風楼」に影響を受けていたに違いないが、富士屋ホテルの正史には「神風楼」は記載されていない。
永楽町は真金町と共に昭和期には赤線街として栄え、昭和33年の売春防止法施行とともに廃止された。
現在の永楽町・真金町を訪れてみても、四角い街路と鳳神社、道路中央の植え込みなどに僅かにその痕跡を残しているが、そのほとんどが住宅街であり歴史を感じることは難しくなっている。
今にも消えて無くなりそうな風景が映った古い写真を手に取り、100年以上の長い時を経て色々な人の手に渡り、私の手元に届いた過程を想像すると何とも不思議な気がする。
先の震災で津波により流された写真の修復ボランティアが行われているが、古い写真ばかりで最近の写真がないらしい。デジタル情報は退化すること無く、フィルムよりも保存力があると言うが、最後まで残るのは結局、手元に形として存在する物なのかもしれない。