2014年9月29日月曜日

写真は時を超えて・・・

現代において、カメラほど個人に普及した機械はないだろう。
かつてはお父さんの大きなカメラが一家に一台あったが、今は携帯を含め個人で複数台持つ時代になっている。
誰もが気軽に写真を撮る時代であり、フィルムからデジタルという写真が伝える早さも格段に早まり、それゆえプロとアマチュアの境界線も微妙になってきている。
しかし、誰でも写せるが、「何を写し、残すか」は、今も昔も変わらない選択であり、唯一そこに個人的な目的や感情が作用する。
写真はいろいろな目的に応じて写される。
きれいな風景、個人的な思い出、今を伝えるもの、報道、芸術・・・。
そして私が好むのは、ごくごく日常の街角の光景である。


先日、東京神保町の古書店から6枚の写真を購入した。
その写真は、大きさが今のL版ではなく、定期券とほぼ同じサイズのモノクロ写真である。
昭和30年代だろうか、横浜の盛り場の夜を写したものだった。
撮影者は不明。写真の後ろには糊の跡があるので、おそらくアルバムに貼って保管されていたのだろう。当時は低感度フィルムで夜の手持ち撮影、しかもオートフォーカスではないため、写真は多少ブレ気味でピントも甘い。アマチュア写真家が撮影したものであろうか。

6枚のうち3枚の写真は、横浜にあった「ヌード酒場」の入口を撮影したものである。店名は「セントラル食堂」脇には「横浜名物」とある。
場所はおそらく伊勢佐木町裏か、若葉町辺りだろう。




残り3枚は歓楽街の裏通りとおそらくオデオンのある交差点辺りだろうか、夜の街娼が写されている。
 
 

 どの写真も当時の横浜の夜の街の空気感が感じられる。おそらく撮影者はこの夜の街に何度も通い、その光景に惹かれカメラで撮影することを思い立ったのだろう。
カバンにカメラを忍ばせ、夜の街を緊張感を持ちながら歩き回り、死角を狙って速射で写し、再びカメラをカバンに隠す。
同じく今の横浜の盛り場を撮影している私はこの写真を見て思った。

「間違いなく、この写真を写した人は私と同じ感覚だろう」と。

綺麗な山と雲が写された一枚の写真が展覧会で賞を取ることもある。確かにその写真はよく撮れているし、同じような写真を私は撮れないだろう。
しかし、私はこの写真のように、街の空気感を写し込み、そしてその光景が変わっていく様子を写していきたい。そしてこの写真のように1人でも良いので、10年後、20年後、失われた風景として誰かが振り返ってくれると満足である。

何十年も時が過ぎ・・・再び東京から横浜に戻ってきた写真をおそらく同じ場所を歩いて写していると思われる私が再び調べている。
この写真は私の手元に行き着く運命だったのだろうか・・・そう考えると「写真」というものの「不思議な力」を感じるのである。