街を研究する際の「なぜ、そうなったのか?」という単純な問いは、私の探求心の根源であるが、今でも沖縄の歴史や文化はその必然性の中に釈然としない何かがある。
近年、本土の人にとって沖縄は「癒しの島」といったイメージが主流である。
南国特有の美しい自然と開放感ある気候は、そうした一面もあるだろう。また、私が出会った多くの方々は総じて親切で、来訪者を迎えるという気持ちが伝わった。
那覇の朝 |
しかし一方で、地上の楽園・沖縄には「貧困」という現実があり、県の平均所得は全国最低水準、犯罪発生率や離婚率は全国でも高水準である。
貧困を論じるには、政治と経済に言及せざるを得ないが、政治的には琉球王国時代から、中国、薩摩に二重支配され、戦後は、日本とアメリカに二重支配されている。
また経済においては、米軍基地設置が沖縄経済を壊したと言う意見もあるが、すでに薩摩支配時に重税を課せられ辻遊郭に身売りする者が増え、明治時代には島嶼ゆえ経済の近代化に乗り遅れ、戦時中は本土決戦の犠牲となり荒廃した。戦後はドル支配による経済価値の転換、復帰に伴う本土資本による沖縄の激しい消費は現在でも続き、沖縄に金が蓄積しない経済環境が進んでいる。
今回の旅で金武町に訪れ、役場の総務課で「金武町史(移民編)」を拝読させてもらった。
金武町は沖縄の海外移民発祥の地であり、役場の広場には沖縄県の「海外移民の父」當山久三(金武町出身)の像がある。金武町からは明治、大正、昭和戦前期を通じてハワイ、南米、フィリピン、南洋諸国などへ多くの人々が移民しており、移民先でも街を作り上げていた。 海外移民の本質は「貧困からの脱出」である。移民の多くは出稼ぎ目的か海外で広大な土地持ち地主を夢見ており、地方の貧農村出身者が多い。
當山久三の像 |
“抑圧に抵抗ではなく、受け流す感覚”
この捉えどころのなさが沖縄の本質で、長所であり、欠点でもある。
沖縄の人々と接すると、どこか諦めのような、そして本土に対して引け目を感じるような感情を垣間見ることがある。
長年に渡り生じた鬱屈としたジレンマは、今でも笑顔で人なつっこい沖縄人の根底に渦巻くように流れている。 コザの軍用地ビジネス |
基地のフェンス |
フェンスの向こうの米軍住宅 |
沖縄の特殊な風土は日本の原型であり、現在直面する問題はあらゆる都市にもあてはまる。
沖縄のその独自性と普遍性は、島という隔離された時間軸の上に守られてきた。そして、明るい南島風土とは対照的に、貧困や差別を受け、その苦悩は延々と続いている。 沖縄はすべての事項において、感情と論理が両立する対比と矛盾の世界である。
ピンクライトの下の娼婦と雨中の厳格な聖地、手の込んだ琉球料理と即席なアメリカ料理、明るく義理堅い米兵と空に響く自動小銃の音・・・。
すべてを透過するように強く照らす夏の日差しは、海を何処までも青くする。そして、ひとたび日が落ちれば、何処までも湿った漆黒の闇が広がってゆく。 沖縄はあらゆる多面性を持った都市であり、その奥深さは私を引きつけて止まない。
吉原 |
糸満漁港 |
糸満漁港 |
糸満の軍用品商店 |
横浜に戻って数日後、鶴見区潮田の仲通り商店街へ出かけた。
仲町通りには、戦前から高度成長期にかけて京浜工業地帯の発展とともに、沖縄から出稼ぎに来た人々で形成された沖縄タウンがある。また、沖縄からの移民船は、神戸や横浜を経由して向かうルートがあり、沖縄の海外移民が戦後引き揚げた人々が横浜に定着した。3年前の沖縄の旅で、石垣島に出かけたときに「栄福食堂(トニーそば)」という食堂を営むおじさんと仲良くなった。
おじさんは昔出稼ぎで横浜に来ており、一時期寿町で暮らしていた話をしてくれた。
「横浜か~懐かしいな~また、職安の階段で寝てみたいな~おいちゃんはね、あれは人生の修行だと思っていたよ」
鶴見の沖縄食堂の片隅でソーキそばを食しながら、ふと何故か黒く日焼けしたおいちゃんの顔を思い出した。
横浜の多面性は急速に失われつつあるが、横浜と沖縄はあらゆる面において遠くて近い都市である。
県人館裏の書き込み |