2015年6月28日日曜日

沖縄への旅 市場探訪


島国沖縄には市場が多く存在しており、市場を「マチグァ」とよぶ。
最も有名なのが那覇の国際通りから入る牧志公設市場であり、その周辺はアーケードで場外市場の体をなしている。
この界隈は観光客で溢れているとはいえ、公設市場の食材は、青や虹色の魚や豚の顔丸ごとの肉など、本土の者にとって初めて見るものであり、非常に刺激的である。


    
 
 


公設市場の周辺は、通りがいくつも延びており、その光景は戦後の闇市的で非常に興味深い。市場中央通りをずっとまっすぐ行くと、アーケードはいくつか名称を変え、徐々に古ぼけていくとともに、客も地元民へと変わっていく。販売している物品も遠くなるにつれ安くなる傾向がある。

 
 
ひめゆり通りというバス通りに到着するとアーケードも終了し観光客は皆無となる。前回は私もここまでの探訪であったが、今回信号の向こうに古ぼけた木造倉庫が見えたので、足を伸ばしてみた。
「農連市場」という古い看板が掲げられた木造平屋建ての建物の中は、底板の上にござが敷いてあるのみで、特別な仕切りや空調、冷蔵装置はない。裏手にはガーブ川という狭い川が流れ、その上を木造の渡し橋が架かっている。

写真を撮っていると地元のおばあさんと目があった。
「内地の人かい?この市場は相当古いよ。今来ても面白くないよ。そうさね~明日の朝2時頃なら開いているから、来てみると面白いよ」とのこと。

さすがに実行は出なかったが、木造で明らかに戦後まもなくの建物であるこの界隈は古き沖縄の匂いがする場所である(建て替えの噂もあるらしい)。

 
  
 
 
 


 
ゆいレール「安里駅」近くに、観光客にはあまり知られていない「栄町市場」がある。
(その後、若者が店を出すなど、現在は吉祥寺的な有名スポットとなっている)。

栄町市場は、戦後の復興時に誕生し、現在もなお、当時とほとんど変わらぬ姿で現存する。
かつては那覇市の中心街として大いに栄えたが、すっかり寂れてしまい、当時の繁栄を彷彿とさせるものはない。
戦後まもなくのアーケードのカバーは、米軍のパラシュートで代用していたらしい。





 
 
訪れた日があいにく日曜日で、店はほとんど開いていなかったが、ある菓子屋が開いていたので、サーターアンタギーを購入ついでに、店のおばさんに栄町の特色を聞いてみた。

「この辺には昔、県女(県立女学園=ひめゆり学園)があったさ。近くに祭事用の菓子屋があったしょう?市場は沖縄の祭事に利用する食材を多く備えていたので、結構栄えていたよ。」

漠然と歩いているときは、あまり気にも留めなかったが、確かに沖縄の市場には必ず祭礼用の菓子や道具を売る店が一角にある。
 
 
 


 
沖縄の祭礼の多さやその内容は独特で、年中行事だけでも毎月あり、旧暦に従って行われる。
旧暦2月の彼岸には仏壇にごちそう(三枚肉、天ぷら、揚げ豆腐、かまぼこなどのお重とあん餅、白餅など)を供え、旧暦3月の清明祭(シーミー)は、先祖供養で門中が本家の墓に集まって、重箱料理のごちそうをそなえ、お焼香をしてから皆で料理を食べる。

沖縄に訪れると亀甲墓と呼ばれる巨大な墓を度々見かける。亀の甲羅状の屋根が覆う部分は、母の胎内、そこから人が生まれてきた出生以前の胎内を意味しており、かつての風葬の習慣で死後数年間は遺骸を石室内に放置し、数年後に親族で洗骨して改めて骨壷に納骨して石室に収めることから、石室内部は広く設けられている。
清明祭では一族がこの墓の前で食事会を行う。

その他、旧暦5月の漁村で行われるハーリー(サバニと呼ばれる伝統漁船を使ったレース)、旧暦7月中旬のエイサーは観光でも有名になっている。

 


 
こうした、行事に合わせて作る料理の多さは推して知るべしで、店のおばさんの説明で、本来の沖縄の市場が祭礼に深く関わっていることが分かり、築地市場のような本土の市場と異なる点を認識できたのである。

栄町市場は、農連市場と並んで、戦後まもなくの沖縄市場の原型を留める最後の場所として、また沖縄の祭礼文化を確認することが出来る場所である。