沖縄を理解するためには、その特異な歴史性を把握する必要がある。
簡単にまとめると、1429年に尚巴志の三山統一により琉球王国が誕生したが、15世紀に明の臣下となり、17世紀初頭に薩摩藩(日本)の管理下となった。 その後、廃藩置県で鹿児島県下に編入され、1879年の琉球処分で王統の統治権がなくなり日本本土の一部となった。
太平洋戦争終結後は、アメリカが「沖縄県は独自の国で、日本に同化された異民族」として琉球政府を創設、軍政下に置き、各地にアメリカ軍基地・施設を建設した。
1960年代のベトナム戦争によって沖縄が最前線基地とされると、駐留米軍が飛躍的に増加し、これに伴って事件・事故も増加した。一方、米軍による需要がある土木建築業、飲食業、風俗業などに携わる勢力は、復帰反対や米軍駐留賛成の運動を展開し、彼等の支援された議員が復帰賛成派の議員と衝突した。
1969年の日米首脳会談で、ニクソンが沖縄返還を約束し、1972年5月15日に琉球政府は沖縄県となり、日本へ復帰した。
・・・・・・・・・・・・・・・
15世紀から現在に至るまで中国、日本、アメリカの政治的支配下に置かれ続けた島民の生活や文化はどのように変化し残っているのか、私が住む横浜にもあった基地の街の風景を沖縄で見ることが出来るのかが今回の旅のテーマである。
琉球王国時代の遺構は、2000年に今帰仁城跡、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡、首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽が世界遺産登録された。
今回は、築城の名手といわれた護佐丸が建てた中城城跡、座喜味城跡を回った。
中城城は、本島中部の普天間からタクシーで10分程度。
当日は朝から大雨注意報が出ていたが、城に着くとにわかに晴れてきた。先の第二次大戦の戦禍をまぬがれ、城郭は残っており、かなり原型をとどめている。最上部まで上り詰めると、東に太平洋、西に東シナ海を見渡すことができる。表門を入ると一の郭、二の郭、三の郭と続き、首里城を遥拝する場所や御獄など、いたるところに拝所があり、城という軍事施設の中にも深い信仰心を感じることができる。
座喜味城は那覇からバスで1時間30分程度の嘉手納基地西側の読谷村にある。
座喜味城は三山統一後、北山を監視するために築城され、中城城と比較すれば小規模である。
地盤が緩い場所に建てているため、城壁を曲線で作るなど他の城には見られない築城の工夫がある。
現在本土においても触れることができる琉球王国時代の文化は、お馴染みの楽器「三線」がある。
実際、沖縄の町を歩いていると、かなりの頻度で三線の音色を聞くことができる。国際通りの料理屋の店先で若い女性が弾いている。
牧志の公設市場横の楽器店で若者が商売気なしにゆっくりと弾いている。食堂の主人が飯を食いながら、やおら三線を弾き始め、また飯を食う。
市場の入り口にダベって携帯をいじっている高校生とおぼしき若者が、突如脇から三線を取り出す。
夜の人気のない市場のアーケードを、長髪の流しの三線弾きがふらふら歩いている。
離島の細い路地を歩くと、昼時の民家から三線の音色が聞こえる。
こうした光景は、現在の沖縄でも日常であり、老若男女問わず三線をたしなんでいる。
老齢のタクシー運転手にこの様な風景に出会った話をすると、
「いや~最近は関西や関東からも、沖縄に音楽留学する人が増えていますよ。三線の演奏はもちろん、やはり歌に必要な沖縄方言を学ぶために来ているらしいです。私が若い頃はお客さんのような綺麗な標準語に憧れたもんですが、時代は変わったもんです」とのこと。
壺屋には「やちむん通り」と呼ばれる琉球焼物の店が並ぶ通りがある。
座喜味城見学から那覇に戻ると、まだ雨はシトシト降っているので、全天候型の牧志公設市場でひとしきり買い物や撮影を済ませて、壺屋へ向かった。
一見すると観光地であるが、このあたりは300年を超える琉球焼物の町で、戦火の被害も少なかったことから、路地裏には古い建物や当時の登り窯が残っており、那覇でも最も魅力的な場所の一つである。
琉球焼物は、琉球王朝が海外貿易を盛んにしていた14~16世紀頃に中国や南方諸国の陶磁器を持ち込んだ。その後薩摩の治政下におかれ海外貿易が下火になると、琉球王朝は産業振興の目的で薩摩から朝鮮人の陶工を招き、朝鮮式陶法の習得に力を入れ始め、今日の壺屋焼の主流を占める。そして王府の手によって美里村知花窯(現・沖縄市)、首里宝口窯、那覇湧田窯が牧志村の南(現・壺屋付近)に統合され、現在の「壺屋焼」が誕生した。
3年前に湯飲みを購入した「新垣陶苑」に再び訪れ、皿を2枚購入した。店の主人が再訪を喜び、お茶を入れてくれたので、最近の沖縄のよもやま話をしてゆっくりと過ごした。
ここ近年、那覇中心部の開発もかなり進んでおり、マンションやホテルが林立している状況であるという。壺屋のシンボルである国指定重要文化財「新垣家住宅」の敷地内にある登り窯「窯東ヌ窯(あがりぬかま)」が3ヶ月前に大雨と老朽化で崩壊したらしい。
雨の中、壺屋の路地を歩きながらウロウロすると、3年前写真を撮影したトタン屋根のバラック住宅が固まっている一角が取り壊されマンションとなっていた。
近くの桜坂社交街(飲み屋街)の古ぼけたスナック群も、新たな道路の建設で分断されていた。沖縄もゆっくりと確実に変わりつつある。
旅の2日目の夜、沖縄で本格的な琉球料理を提供する名店「琉球料理乃山本彩香」へ訪れた。
チャンプルーやソーキそばなどの沖縄料理は本土でも食すことは可能だが、かつての宮廷料理は沖縄でしか味わえない。
3年前は店舗改装中で訪れることが出来なかった。店に入るとカウンターの真ん中席にグラス類がセットされている。なかなか予約が難しい店なのだが、今回はすんなりと予約できた。最初に自家製の「豆腐よう」が出てきて、酒に弱い私はこれで酔ってしまったが、全く臭みもない一品だった。その後1時間30分かけて、10品近い料理が続いた。どれも素晴らしい味わいであった。
さてこの店、私が訪れた6月15日に8月末をもって閉店のお知らせを新聞に掲載した。女将自身が高齢であり、夜営業でこの量の料理を提供するのは体力的に難しくなったらしい。10月には一品料理の店として、昼営業で再スタートを切る予定とのこと。
この店で本格的な琉球料理のコースを味わえるのはおそらく最後になるが、また沖縄を再訪したときは昼に訪れてみたいと思う。
ホテルに戻りテレビをつけると、郷土芸術中継で沖縄の古典劇を流していた。本土でいえば歌舞伎に相当するもので、琉球王朝の衣装を着た俳優が三線をBGMに、沖縄方言で演劇している。
かつて東京、横浜と同様、いやそれ以上に戦禍で荒れ果て、復帰後は本土との同化が進んでいる沖縄であるが、こうした琉球王朝の文化や生活習慣は日常生活の中にまだ残っている。