沖縄の南部に位置する久高島は琉球の創世神アマミキヨが天からこの島に降りてきて国づくりを始めたという、琉球神話の島であり、遥か遠い東の海の彼方の異界ニラーハラーにつながる聖地で、生者の魂もニラーハラーより来て、死者の魂はニラーハラーに去ると考えられている(ニラーハラーと、ニライカナイは同義)。
島には琉球王朝時代の神女組織「ノロ」制度と、12年に一度行われる秘祭「イザイホー」などの祭事があり、御嶽、拝所、殿、井などの聖地が散在しているなど、民俗学的に重要な島である。 注)「御嶽(うたき)」とは、神が存在・来訪する場所、また祖先を祀る場で、その多くは森の空間や泉や川などである。
那覇の朝空は、時よりどんよりした雲が街を通過し小雨を降らせていた。那覇バスターミナルからバスに乗ると、やがて地元の高校生で満員になったが、南部の安座真港へ到着する頃には、空席になっていた。
フェリーのチケットを購入して乗り込むと、ほとんどが地元民で観光客は私の他2名程度であった。
先頃の台風の発生で波は若干高い。高速船が波頭を縫うように進むと、やがて波の間に平たく浮かぶ久高島が見えてきた。
島はほとんど起伏が無く外周は約8km、面積約1.4㎡の小さな島で、自転車であれば1時間強で回れてしまう。
島名産のイラブー(エラブウミヘビ)の猟場である岸壁に船が接近し、ゆっくりと港の桟橋に到着した。島に降りると猛烈な湿度が体にまとわりついた。
島のレンタサイクル屋で自転車を借りて、最初の目的地であるイシキ浜へ向かった。
イシキ浜は、流れ着いた壷の中に五穀の種子が入っていたという伝説があり、五穀発祥の地とされる。今でもウプヌシガナシー(健康祈願)の祭祀では、この浜から祈りをささげる。
島の集落を進むと昔ながらの静かな雰囲気を残している。ほとんど標識がないため、島のホームページの大まかな地図をたよりに島の東側に向かった。 林の袂に小さな「イシキ浜」の木製看板があり、林を進むと小さな砂浜が広がっていた。
ゆっくりと浜の中央に進むと、低い黒い雲から激しい雨が降り始めた。
波打ち際に向かうと、珊瑚礁で出来た礁湖が広がっている。浜には人一人いないが、遠浅の彼方に地元の漁師とおぼしき男が2~3人遠くの海を見ている。おそらく天気を図っているのだろう。
雨は次第に強くなり、海岸線は雨煙で包まれ、自然の猛猛しさと厳しさで圧倒された。
ここから海の彼方のニラーハラーに向かい祈りを捧げるのだろう。
その後ろに立ち、白い衣装を着た久高の神女の姿を想像しながら、雨に煙る海の彼方を見ると、教会とはまた違った自然の聖域の荘厳さを感じることが出来た。
雨は降り続けているが、次の目的地、島の北端のカベール岬へ向かった。
途中、クボー御嶽があるが、ここは一般人、特に男は立ち入り禁止である。
両側に草木の生い茂った道を駆け抜け、雨がたまった窪地にはまりながら、自転車を走らせると島の突端へ着いた。 カベール岬は祖神アマミキヨが降り立ったとされる地であり、海神が白馬の姿で降臨したとも伝わる聖地である。
岬は崖になっており、激しい雨の中、波しぶきが崖の下からあがっていた。
再び来た道を戻り、村落へ向かう。
村落の中程には御殿庭とウプグイと呼ばれる二大祭場がある。 御殿庭は久高殿とも呼ばれ、イザイホーが行われる場所であり、ウプグイは外間殿と呼ばれ、旧正月をはじめとして多くの行事が行われる。
久高殿 |
イザイホーは12年に一度午年に行われ、島で生まれ育った30歳から41歳までの女性が、祖母の霊力を受け継ぎ、島の祭祀組織に加入する為に行う式である。
祭祀を取り仕切るクニガミは、最高位にある外間ノロ、久高ノロがいる。
久高島では、女性を守護神とする母性原理の精神文化を伝えており、最も古来の風習を維持し、沖縄の信仰の根源である。しかし、その精神世界の指導者である最後のノロが2005年に亡くなり、現在祭祀を仕切れるのは補佐役の二人のみである。また、イザイホーは、1978年に行われた後、該当者なしで1990年、2002年は行われていない。
イザイホーの映像
一通り、島を見終わると、にわかに天気が回復し青空が出てきて沖縄の夏となった。
帰り船の出発まであまり時間はなかったが、私は再び自転車を飛ばし、イシキ浜とカベール岬へ出かけた。青空の下の聖地は、先ほどの厳格な雰囲気ではなく、どことなく穏やかな風景だった。
フェリーが波しぶきをあげて、久高を後にした。
青い空と海の間に薄い島が見えていたが、程なく安座真から真っ黒な雲が覆いはじめ、海上に猛烈な雨が降り、久高島は雨煙の中にゆっくりと消えていった。
港に着くと、丁度タクシーがいたので、斎場御嶽に寄って那覇まで戻ることにした。
斎場御嶽は15、16世紀の琉球王国・尚真王時代の御嶽であるとされ、敷地内には3つの拝所があり、その一つの三庫理からは最高聖地の久高島を遥拝することができる。 2000年、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産に登録された。
かつて琉球の御嶽はその全てが男子禁制であり、斎場御嶽では庶民は入口の御門口を越えて進入することは許されなかった。
三庫理へ着くと、雨も上がり始め、岩の間から再び神の島・久高島が現れた。
沖縄に多く存在する御嶽は、寺社仏閣に慣れた本土の者から見れば、何もない場所で最初は唖然としてしまう。逆に沖縄の人が奈良や京都に行くと相容れないらしい。
宗教観という精神文化の根底において、本土と沖縄はやはり違う文化圏なのだろう。 タクシー運転手が那覇までの間、久高島の現状について話してくれた。
「久高島も昔は自給自足が出来たが、今は生活できないので若い人たちは、み~んな出て行ってしまったです。女性の神官も少なくなってしまい、イザイホーもここ30年は行われていません。本来神聖なイラブー漁もノロが技術をもっているのですが、最近は島の男がその技術を伝承しています。本来は女性でなければいけないのですが・・・」
沖縄では、現在でも街の御嶽で祈りを捧げる者を見ることができる。私も3年前、早朝の首里城近くで一心不乱に祈りを捧げる老婆を見た。
沖縄の御嶽は、村を共同体として機能させ、その世話役は女性が担ってきた。
沖縄の信仰は風土や人間に神が内在するという原始的かつ土着的であり、他の都市では見られないほど色濃く残っている。
これこそが沖縄の固有性であるともいえる。
中国や薩摩の支配は社会が未熟であり、その影響力は小さかった。また、戦後の荒廃とアメリカ統治下でも、その固有性は奇跡的に維持された。
しかし、本土復帰により、極めて同化力のある波が押し寄せ、多くの土着文化が商品化された。
もし、経済的事情により聖なる土地が無くなったり、人々が出て行けば、日々の暮らしが変わり、沖縄の人々の団結力も弱体化し、その根底にあった信仰も崩れていくだろう。
“貧困が信仰を崩す”という沖縄独特の矛盾。
沖縄の中でも、まだ経済環境が整っている本島では感じられなかったが、図らずも聖地・久高島で沖縄の縮図を垣間見たのである。