戦後から現在まで沖縄には多くのアメリカ軍の基地が存在している。
かつて、横浜にも多くの基地があったが、残念ながら現在の横浜では当時の風景を見ることは出来ない。
今回は普天間、嘉手納(コザ)、キャンプ・ハンセン(金武)の基地前の繁華街を訪れた。
那覇のバスターミナルから普天間まではバスで40分程度、コザまでは1時間程度、金武町までは2時間かかる。 バスに20分ほど揺られ浦添市に入ると海兵隊の「キャンプ・キンザー」が左手に見えてくる。さらに20分程度で宜野湾市の普天間基地前に到着する。普天間の繁華街は特に社交街として命名されていないが、インターナショナルスクールや古ぼけたスナックがあり、カフェーの看板もあった。ある街角のスナック入口は本土でよく見る赤線建築様式であった。町外れには連れ込みホテルが2軒ほどある。
夜は訪れていないので、現在でも米兵が来るのかは未確認であるが、建築様式から米兵相手のバーであることが類推される。
コザを過ぎてさらに1時間ほどで、金武町入口に到着する。
金武町社交街は「新開地」ともよばれ、キャンプ・ハンセンの第1ゲート前にあり、入り口には、星条旗と日の丸が掲げられている。 金武は、1960年代ベトナム戦争時、B-52 が嘉手納基地から連日北爆に向っていた頃、米兵達がバーや風俗店でドル札を湯水の如く使っていた場所で、今でも当時の建物群がそのまま残っている。
日本の繁華街にありがちな狭い路地の裏町感はなく、むしろ整然とした住宅街のような区画に、古ぼけたスナックが並んでいる。
スナックの入り口は斜めで、直接中が見えないようになっており、外壁には赤や黄色の原色を用いたポップな絵が描かれている。
金武町社交街は沖縄の中のアメリカの町並みとして、グラビアや映画の撮影も行われている。今でも夜になれば、各スナックにフィリピンや南米系のホステスが集まり、米兵で溢れかえるらしい。
昼時になったので、タコライス発祥の店「キングタコス」でタコライスを食した。外国人相手の習慣でキャッシュオンの料金前払いである。
ご飯にレタスとチーズと鶏肉とケチャップをかけるというものだが、これが以外とおいしい。
帰り道、バス停でベンチに腰掛けのんびり目の前の基地のフェンスを眺めていると、遠くから「ぱっ、ぱっ、ぱっ、ぱっ」と爆竹が等間隔で素早く爆ぜるような音が聞こえた。
キャンプ・ハンセンには実弾射撃訓練場があり、先日も民間人の車に穴を開けたらしい。のんびりとした青空に響く自動小銃の音も沖縄の風景である。
沖縄市コザは嘉手納基地の東側に面している。胡屋十字路から基地ゲート方面への通りは、ゲート2ストリートと呼ばれ、横文字の看板が並ぶ最もコザらしい風景である。
また、数100m平行に移動した中央パークアベニューは、かつて飲食店やバーが並び、米兵で溢れかえっていたとのことだが、現在は寂れた商店街となっており、タコスの名店チャーリー多幸寿やステーキのニューヨーク・レストランが残っているのみである。 コザは、基地前のクラブから生まれた沖縄ロックの聖地として有名である。当時のハードロックバンド「Marie with MEDUSA」のヴォーカリスト喜屋武マリーは「喜屋武マリーの青春」という本に描かれ、後に「Aサインデイズ」という映画になった。
金武町と同様、ベトナム戦争時の米兵が連日バーで暴れていた頃、店では沖縄の若者たちが、米兵を相手に音楽を演奏するようになった。
戦場行きを前に、荒んだ若い米兵たちに囲まれながら、演奏の腕を磨き、それまで沖縄には見られなかったロックを生み出していった。
1970 年代に入り、沖縄が本土復帰をすると、キャナピス、コンディション・グリーン、コトブキ、紫など沖縄ロックの米兵相手に鍛えられたパワフルな演奏は一躍注目された。
一方、コザには音楽家にして漫談家、戦後の沖縄県の娯楽・芸能をリードした、沖縄ポップカルチャーの第一人者、故・照屋林助のコザ独立王国「てるりん館」がある。
一通り、ゲート2ストリートの風景を撮影した後、中程にある喫茶店に寄った。店内には老齢の男が1人カウンターに座っていた。
私が入るやいなや嬉しそうな表情で話しかけてきた。
「カメラは何台持っているの?私もカメラ好きでね」
しばらく、カメラ談義に花が咲き、私が横浜から来たことを伝えると横浜の話で盛り上がった。
男はTさんという名前で、神戸出身、仕事でアラスカやアメリカなど海外を転々とし、昔6年間ほど横浜の日吉に住んでいた。 その後沖縄に来たが、明後日には北海道に移るらしい。
途中、軍服を来た若い米兵が店に入ってきた。Tさんは流暢な英語で沖縄を離れることを伝えると、人の良さそうな米兵は名残惜しそうに握手をして立ち去った。
「米軍のことを悪く言う人もいるけど、一人一人はナイスガイでね。私は彼らの事が好きだよ」
再び話が続き、私が港北区の高校出身であることを明かすと、Tさんの娘も同じ学校であるとのこと。
年齢も私の1歳下とのことで、なんと同時期に同じ学校に通っていたことが判明した。すでに20年も前の話が、時を経て沖縄のコザの基地前の小さな喫茶店で融合するという偶然に、2人で盛り上がった。Tさんの話ではこの喫茶店は同じような偶然が、たまに起きるらしい。
気がつけば、1時間以上が経過しており、そろそろ席を立たなければならなくなっていた。私はTさんと握手を交わし、また地球のどこかで偶然の再会を約束した。
基地の街コザでは、1970年に米兵が起こした民間人への交通事故を契機に発生した車両や米軍施設に対する焼き討ち事件「コザ騒動」が起きた。当時、米軍人や軍属などが住民に対して起こした犯罪や事故に対して下される処罰が軽微であったこと、特にベトナム戦争下で出撃基地となったことで米兵による犯罪や事故が多発したことが背景にあり、穏和な沖縄人が起こした暴動として記録されている。
現在は基地内にPXや映画館、バーなどの街の機能が存在しており、基地の外に出なくても生活できるようになっており、米軍当局もトラブル防止に基地内での生活を推奨している。
その分周辺の基地問題も軽減されているが、代わりに旧市街は寂れつつあることは否めない。
良くも悪くも活気があった基地の街は大きく変わってしまったが、夜の吉原で見たピンクライトの下で娼婦と交渉する若い米兵の姿、パワフルな沖縄ロックと伝統民謡、昼下がりの横文字看板と遠くに見える基地のフェンス、人々が交錯する喫茶店を思うと、コザの街にかつての横浜の風景を見たような気がしたのである。